大久保 榮

 

知られざる日本の俊才

 

  

大久保 榮 Ohkubo Sakaye 1879-1910)

 

東京帝国大学医科大学時代に森鷗外 宅「観潮楼」玄関番として名を残す。 大学を首席で卒業し、海外留学に赴くも帰朝を前に巴里で客死。

鷗外の作品『花子』に医学士久保田某として永遠の生命を授けられる。

 



当ホームページは、中川満 文責/監修 による

『明治近代日本人留学生たちの青春コロニー ~森鷗外『花子』医学士久保田某の研究~』 を基に構成しています。

大久保榮の生誕140周年 (平成31年) を記念して、その若き日の実像を公開します。

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 明治30年代から40年代にかけて、「普請中」の近代日本に、洋行組の選良たちが果たした役割は大きい。明治33年に夏目漱石はロンドン留学の途上パリに立ち寄る。電気と鉄の新時代を象徴するパリ万国博覧会(1900年)、その近代技術の凄まじさにド肝を抜かれる。漱石はロンドンの下宿先に閉じこもり神経を病むまでに英文学を研究し異文明と対峙した。1886年異国の青春を謳歌した鷗外との明暗はどこにあるのか興味深い。

 

 明治39年に医学士大久保榮はドイツ、フランス留学へと出立する。西欧近代技術文明のまっただ中で「立身行道 揚名於後世」を期す明朗闊達な日本人留学生たちがいた。都市には日本人留学生の集うたまり場(学生村:コロニー)があった。コロニーは日本の知的海外植民地を彷彿させるような学問芸術の拠点となる。日本の「飯」を振る舞ってくれる下宿屋、伝説的なホーフブロイハウス(ミュンヘン)、クロコディール(ストラスブルグ)などに集えばそこが知的コロニーとなった。

 ドイツに着く早々、イギリス、フランス、ドイツに学ぶ日本人留学生から多くの葉書が届く。筆まめな大久保はその都度応じた。異国で酒杯を交わし日本の前途を夢見る陽気な青春時代の真ん中で大久保は斃れる。

 

 「明治」「大正」「昭和」「平成」・・・と、明治はさらに遠くなる。平成最期の2019年が大久保榮生誕140年となる。大久保家が代々所蔵してきた森鷗外関連資料を公開すると同時に新しい資料をもとに鷗外作品『花子』の創作動機と作品 意義を考察する。