森鷗外「花子」研究

医学士 「 久保田某 」


実像としての大久保榮 

 

 

明治43年7月1日(金)雑誌『三田文学』第一巻第三号に、森鷗外は小品『花子』を署名入りで発表した。

 

 

森鷗外『花子』

登場人物はロダン、案内人、通訳(パスツール研究所久保田某)、花子

花子:日本から外国人興行師に連れられてきた素人集団の旅興業一座の女優(?)

医学士久保田某:パスツール研究所の医学士(日本人留学生)。ロダンと花子の通訳をする人物。医学士久保田某は「花子」発表時から独逸留学経験のある森鷗外自身の仮象として理解されてきた。

 

*森鷗外『花子』は三島由紀夫など研究者の間で問題作として採り上げられてきた。三島由紀夫によって日本文学研究者ドナルド・キーンは鷗外の『花子』を英訳することになる。しかしその当時は世にでることはなかった。今ではドナルド・キーンは日本文学研究の泰斗で世界的権威があり、数年前に日本に帰化した文学者。

 

*そのキーンの著作「鷗外の花子をめぐって」で大久保榮に論考していることに注目したい。鷗外『花子』の創作の動機は明治43年6月11日にパリ(パスツール研究所)で客死した大久保榮にあったと考察している。

 

『花子』の作品自体は簡潔なストーリーでマルセイユ植民地博覧会でロダンが偶然に日本人旅芸人一座による興業を目にしたことがきっかけとなってからの後日譚、案内人、通訳つきでパリのロダンのアトリエ(オテルビロン)を花子が訪れることからストーリーが始まる。

鷗外作品『花子』では17歳で登場する。実際の花子は42歳で無名の日本人女性。彫像のモデルになるような美的センスからはかけ離れていたが、彫刻家ロダンはハラキリ(切腹)、死に顔の花子の表情に内なる日本人の強さの美(?)を発見し花子に芸術的興趣を覚える。花子の死に顔にロダン流の骨格、環状、力強さの芸術的理解を発揮したその作品は『死の首』と名付けられロダンの代表作品の一つとなる。

 

花子(太田ひさ)簡略履歴

花子は実在の人物で本名は太田ひさ(明治元年4月15日―昭和20年、77歳)。愛知 県木曽川畔中島郡祖父江村(現祖父江町)の生まれで幼少より世間のしがらみにさらされた。放浪の身の上で偶然に欧州往きの旅芸人仲間に入り、欧米各地を回った。ロダンとの面識と日本趣味(ジャポニスム)人気で花形となるが演劇的には疑問がのこる。日本では女優としての評価、活躍は見られない。帰国後、晩年を岐阜市で過ごした。

 

渡欧時期 明治35年(1902年)34歳 横濱出港

帰国時期 大正10年(1921年)12月 ロダン作二つのマスク・「死の首」「空想に耽る女」を抱えて帰る

昭和20年(1945年)4月2日 77歳 ぶよに刺されて悪化し丹毒にて死亡

 

ロダンと花子の最初の出会い

明治39年7月18日のこと。マルセイユ植民地博覧會で彫刻家ロダンがカンボジア舞踊団を見学し、デッサンを筆写したついでに日本人芝居小屋に立ち寄る。日本人素人旅回り一座の興業はゲイシャ・ガール(芸者)・ハラキリ(切腹)・サムライが評判になった。ロダンは花子のハラキリの死に顔にインスピレーションを得る。

芸名の花子は興行主ロイ・フラー女史が名付けた。太田ひさ→花子

 

マルセイユ植民地博覧會(明治39年4月14日~11月18日)

*大久保榮(神奈川丸)のマルセイユ着港は明治39年9月16日のこと。

 

*大久保榮と花子(本名:太田ひさ)がこのマルセイユを接点として同時代を共有していたことがわかる。日本を代表する知的選良と悲劇的な人世に翻弄されて異国にたどり着いた太田ひさとが。

 

*日本の欧州航路の終着港はアントワープ。船員、旅宿、食堂など日本人の溜り場(コロニー) があり、妖しげな巣窟もあった。花子(太田ひさ)は一時、ここに身を置いた。

 

*外国人興行師に雇われた日本人の素人旅芸人一座が見せ物小屋で興業をしていたフランスの植民地となったインドシナ半島、ベトナム、カンボジア、タイなどの物珍しい物品や踊り子などが来て異国趣味で賑わった。フランス人のレセップスにってスエズ運河が開通し、マルセイユが東南アジアの南洋貿易の主要港となった。それに密林の奥地から謎めいたアンコールワット遺跡がフランス人探検家によって発見され、いやおうなしにこの博覧会は盛況をおびた。

 

*このカンボジア舞踊団を見学に来た彫刻家ロダンは通りすがりに日本の芝居小屋に立ち寄る。「芸者の仇討」芝居で・・・悶死する断末魔の花子の表情・・に衝撃を受けたロダンは花子に面会を求める。実際に、これがロダンと花子の最初の出会いとなった。帰国後の花子の所在を知った高村光太郎が昭和2年2月初旬に、岐阜市に住む太田ひさ(花子)を訪ねてきた。その時にロダンとの最初の出会いを語った。

 

女のハラキリなどという芝居をうてば西洋人には大人気となる。本来ありえない仕種を演じて見せる花子には、もし日本の留学生に見られては国辱ものといううしろめたさがつきまとった。この同時代、欧州各地で興業をうつ花子一座の素人芸は日本人留学生という西洋かぶれにしてみれば一顧だにしない関心外のことであった。

イプセンなどの近代劇がやがて日本で翻訳上演される。明治近代日本の洗練された眼差しから見れば・・・国外で「日本のドゥーゼ」と呼ばれ、「サダヤッコ」という名の香水にもなったあの川上貞奴ですら粗野で滑稽な取るに足らないものと切り捨てられる。一座の出し物「芸者と騎士」などは体操の練習とけんかのようなものというのが演劇人の論評である。(1902年3月23日 ペテルブルグ ノーヴォエ・ヴレーミャ)。まして花子が近代演劇世界の欧州を席巻した日本人大女優とは・・・誇大にすぎるのではないか。ロダンあっての花子以外花子はなにものでもない。

 

ドゥーゼ:Eleonora Duse( 1859-1924) イタリアの女優。フランスのサラ・べルナールと並ぶ名女優。イプセン「人形の家」「ジョン・ガブリエル・ボルグマン」など代表作。

 

 

高村光太郎の渡欧米

明治39年(1906年)2月3日、横濱出港。24歳。私費渡航。 

渡航ルート: アメリカ(ニューヨーク)→ロンドン→パリ(明治41年6月)→ローマ→ロンドンから帰国したのが明治42年6月30日のこと。

パリに荻原守衛(碌山)がいた。高村光太郎のパリ滞在中に彫刻家ロダンと会った形跡はない。

森鷗外と高村光太郎

明治42年7月25日 高村光太郎巴里より青楊會を開きて歓迎す。『鷗外日記』

明治42年8月 3日 高村光太郎等来話す『鷗外日記』

 

高村光太郎の花子訪問 昭和2年2月初旬 岐阜市に住む太田ひさを訪問

高村光太郎のロダン論 評伝『ロダン』刊行 昭和2年(1927年)4月

 

ロダンの花子をモデルにした「死の首」は1906年~1908年の間に何度も製作している。この時期、ロダンの彫刻芸術は完成の域にあった。代表作品を次々と制作していた。Le Baiser(「接吻」1900年)・Le Penseur(「考える人」1904年)

 

 

近代演劇創始者としての小山内薫

小山内薫(1881-1928)

東京帝大文科大学英文科卒業 明治39年7月10日

医科大学大久保榮とは同期の友人。共に森鷗外「観潮楼」に出入りし当代一流の文人、芸術家と交流した。歌舞伎とは異なる新しい翻訳劇のジャンル、新劇の旗手となる。欧米近代劇としての自由劇場、築地小劇場を立ち上げる。

小山内薫渡欧(大正元年12月~大正2年8月)

ロシア、ドイツ、英国、仏国、ロシア美術座(モスクワ芸術座)のスタニスラフスキー(当時最高の舞台芸術家として有名)を訪問

 

女優(?)Hanakoをめぐる小山内薫の所見について

・・・ロシアの新年を祝う年越しの夜、チェ-ホフ夫人や女優のオリガ・クニッペルなど美術座の舞台人が集った夜会で・・・スタニスラウスキィ氏から「僕はまだSada Yaccoを見 ないのだが、実際はどうなのだ」とSada Yaccoのことを聞かれ、小山内はその意外さに驚き、「Sie ist Kein Kunstler!」と稍激越な調子で応える。併し、私はスタニスラウスキィ氏に 「Warum?」と聞かれて、もう一言も返事をする勇気が出なくなりました。私共にとってこの問題に「[Warum?]はないのです。私はその瞬間に日本人たる私と露西亜人たるスタニスラウスキィ氏との間に、非常に遠い隔たりのあるのを感じて、何とも言へぬ寂しい感じに打たれました。併し、スタニスラウスキィ氏に私のその時の心持ちが分かる筈がありません。氏はさらに問を進めてHanakoの事を聞くのです。私はもうゐても立ってもゐられません。私は日本中の恥を一人で背負って立ったやうな気がしました。私は眞赤になりました。「そんな人の名は日本で聞いた事もありません」私は冷や汗をかきながら、やっとこれだけ言い ました。

(「小山内薫全集第六巻 露西亜の年越し」P525)

 

Sada Yacco:貞奴(川上貞奴)

[Sie ist Kein Kunstler!] 彼女は芸術家(芸人、名手)でもなんでもない!

[Warum?] なぜ?どうして?

Hanako:花子(太田ひさ)

 

 

当時の世界的な演劇動向はイプセンやチェーホフ、ゴーゴリー、ハウプトマン、メーテルリンク、シェイクスピアなどの迫真的な舞台の総合芸術であった。これに比しサダヤッコやハナコの即興的な芝居(パロディ)はドタバタの笑劇、一幕物の悲喜劇など見せ物芸にすぎな かった。

 

 

「藝者で洋行し女優で歸る迄の廿年-十八個國語で劇賞された女優-マダム花子」(大正6年 1月1日発行の雑誌『新日本』)から引用すれば・・・。

「折柄日露戦争中の事とて、日本人は何處何地へ往きましても、大評判、大人気、何處の劇場も破れんばかりの大入を取りました」と花子自身が述懐している。

「巴里での藝題は腹切としてフウラアさんが作したものを総勢五人で演じました。私の女の腹切りの血潮がサット迸出って、土間の前側の列の燕尾服の見物人の胸にかゝったのを新聞 が書き立てるなどして、大入り大繁盛でしたが、私は巴里には日本の美術家の留學生の方も大勢入るし、こんな藝を見せてはと、初めは可なりフラウアさんと争ったのですが、この大入りを見て為方がないと諦めて毎晩続け打ちました。同じ藝題で三ヶ月餘打続けました。」

 

「ロダン先生の御贔屓の御手引きで仏蘭西の有名の美術家の方や貴婦人方や、それから時の政治舞臺の有名な方に御目に懸かることが出来て、其れから其れへと御招きに預かりまして私は眞實巴里の花のやうな貴婦人の生活を知り、私も未だ若かったものですから、殆ど夢のやうに、華やかな其の日ヽヽを送る事が出来ました。」

 

「人気は大變なものでオーストリアのヨセフ皇帝が見物に来たり、花子ベネクチンという酒の商標に花子の顔が刷られたり、ベルリンでは花子という巻煙草が賣られた。」

「英国でも同盟国の好みで・・・英国の方が私達を贔屓にして下さいますのも、皆日本の國 の稜威の御陰だと思って・・・」

「岩波講座日本文學」第一八回『森鷗外』

 

日露戦争で大国ロシアに勝利した「日本」はアメリカ、ヨーロッパで人気を博していた背景もあり、旅芸人一座のダシモノは日本人気(フジヤマ、ゲイシャ、サムライ、ハラキリ、武士道)などで、特に切腹(ハラキリ)が喝采を受けた。

花子は女(芸者)のハラキリなど前代未聞の所作芸で喝采をあびたことに国辱ものとの認識をしていた。当時の風聞をもとにしても大女優とはおこがましいといわざるをえない。

 

*日露戦争

*日英同盟

*ジャポニスム

*アール・ヌーボー

*ベル・エポック

 

ドナルド・キーンの鷗外の「花子をめぐって」を参照すれば

ロダンが花子に会ったのはロイ・フラーというアメリカ人の舞踊家の紹介のおかげであった。ロイ・フラー女史は「光の踊り」でヨーロッパにセンセーションを巻き起こした、貞奴を始め「東洋」の踊りや芝居をヨーロッパ人に紹介した功績のある人でもあった。

花子の芝居はパロディであったことがわかる。作者は日本を知らないロイ・フラー女史が日本風にアレンジした作品で大概決まって藝者の切腹の場面を加えた。作品の出し物は「吉原」「受難者」「吉原における悲劇」「藝者の仇討」等。

 

「花子の藝術は例の切腹の場面に限られていたようである」

 

「花子はデンマークで最初の成功を収めた。デンマークからフィンランドへ行って、ちょうど日露戦争の頃であったために反露のフィンランド人たちに日本に同情を表すよい機会があって、花子の成功は「国家的な無我夢中」を巻き起こした。」

 

 

花子その人は・・・

1907年10月8日のニューヨークに着いた時の新聞に「豆型の日本女優が来来」「二十六 歳で、目方はちょっきり七十ポンド(三十二㌔)、身長は四フィート(一・二二㍍)もない。」 批評家によっては手厳しい

「日本語のせりふは犬の喧嘩にそっくりだ」「役者たちの早口の日本語は猿の鳴き声に聞こえる」「男子の役者はゴリラのような顔で、花子ほど見苦しい女性はいない」「花子の竹馬の下手な踊りや不格好なおどけを見ると、彼女と三人の役者は檻の中の、老衰はしているが、まだずるい猿を思い出させる」と。

ドナルド・キーン『鷗外の「花子」をめぐって』(昭和47年)

 

 

鷗外の所見は・・・

新富座役者の伊原敏郎が俳優を欧州に派遣することについて森鷗外の意見を求めた・・・「大いに真面目でやって貰いたいね。西洋では貞奴を日本のえらい役者と思って居るのだからね。貞奴より劣った花子というやうなものや、此の間、ミュンヘンで死んだ日本の女優が相応に歓迎されている。・・・だから日本のすぐれた俳優が行けば屹度有望に違いない。

『鷗外全集第38巻』「俳優渡英の議 明治42年8月17日」(P220)

 

 

 

 

明治40年4月22日(ドイツ  エッセン) 歌舞伎あり

 

貞奴 渡欧記念葉書


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