観潮楼時代

 『森鷗外・母の日記』(山崎國紀編:三一書房)


明治37年(1904年)

  祖母清86歳、母峰子59歳、 鷗外43歳、妻しげ25歳、長男於菟15歳、

 長女茉莉2歳、次弟篤次郎38歳、篤次郎妻久子27歳、妹(小金井)喜美子35歳

 末弟潤三郎26歳、大久保榮26歳


 

 

2月10日  ロシアに宣戦布告。参謀本部第一軍(司令官黒木為禎大将・近衛、第二、第 十二師団)の編成を決定。

 

3月15日     大本営、第二軍(司令官奥保蛩大将・第一、第二、第四師団)編成決定。

 

3月 6日     森林太郎(鷗外)第二軍軍医部長に任命される。

 

3月21日     東京を発って広島に赴任し、出征。

 

4月17日     大久保、芝より帰り於といつもの通り稽古をする。

 

4月28日     大久保の事にて本郷の青山博士の宅をとふ。

 

5月18日     きみ子、大久保が藪下にてあやしき物見しと聞きて歌をよこせり。

 

5月23日     大久保よりきみ子に悦びの歌を送る。きみ子返歌をする。

 

5月28日     田鶴子、音楽学校へ大久保が連れて行く。

 

6月    4日     田鶴子、大久保と音楽学校に行く。

 

6月30日     大久保も潤三郎も試験済む故白山の角力に行く。夜は八時より潤三郎と大久保と自身と小金井に行き、居待の月出る迄とて永く遊ぶ。 

 

7月    3日     午前、上田来る。大久保も潤も居るゆえ鰻めしを出し、午後迄話す。

 

7月    6日     夕方より大久保と潤、於とども小金井に西洋料理によばれ5時半に行く。こ の日は、大久保の点数の知れる日なりしが、ことしは、試験不出来のよし。御馳走がまづかりし。此の試験は近藤という人の外科の点、悪しかりし故とか。答案の終わりの紙一枚無かりしとか。何故かかる間違ひせしとや、誰も 試験は○心して出し度し。

 

7月    7日     けふも君子来る。大久保の試験を心配して例の通り。

 

7月11日     夜小山内薫兄妹遊びに来る。潤も大久保も皆、留守ゆえ・・薫さん丈は泊る。 

 

7月14日     朝、田鶴子洋服の新しきを着て父上のゆるしを得たれば散歩に連れて行けと て来る。大久保と、自身と王子に連れて行き、其れより滝の川に行き、帰りに・・・ひる飯を済まして午後帰宅。

 

7月20日     夕方より中すの壮士芝居見物に行く。大久保も鞘町、皆帰宅は夜半一 時過ぎ。

 

7月24日     大久保は30日と思ひしに26日に帰る様にと、養家より申参りたればけふは親類に暇乞に行く。

 

7月25日     大久保の国に持ち行くポンチ画の手ぬぐひ、これは三井にて調へ若て橋やの ○○○○○なりし。

 

7月26日     朝大久保出立。

 

8月    9日     きみ子、大久保へ遣す返歌を持て来る。

 

8月20日     二三日参らざりし大久保の手紙着く。

 

8月27日     大久保より手紙届く。19日出立。帰京する由。

 

8月29日     明日、大久保の帰る事噂する。

 

8月30日     朝より雨降る。大久保、朝の8時に新橋に着く。田鶴子と迎ひに参る約束な れど雨天故止めにす。

 

9月    2日     大久保も一時頃学校より帰宅。

 

9月11日     於との様子・・・、大久保も見てれども分からずと

 

9月24日     三時より本郷座にてダンテの芝居を見せて呉る篤次郎の約束あれば行きしに、 四時頃は大久保も大學より直に来たり。 

 

9月25日     けふも雨天。お天気ならば大久保と田鶴子と日比谷の公園に行く積もりなりしも止めとなり淋しき日曜なり。

 

10月    2日     曇り、併し休日故大久保と田鶴子と散歩に行くといふ事故一緒に目黒へ行 く。不動様に行き比翼墓を見る。 

 

10月    2日     曇り、朝、於とと大久保、自身と上野の白馬会に行き油絵を見る。

 

10月17日     大久保も二日続きの休日なれども雨にて出る事出来ず。

 

10月19日     松茸・・・。大久保の国よりも貰ひしゆえ。

 

10月30日     田鶴子も来て居故、一時頃より大久保とたづ子と連て向島に行く。 雲水にて晩飯を済まし、夜上のより車にて帰る。

 

11月    3日     午後に大久保、於とと一緒に日比谷公園に行く。人多くて何も見えぬ位。団子坂も同様賑わし。

 

11月    5日     大久保、大學の泊まり。

 

11月12日     一時頃より大久保は音楽学校に行き、田鶴子を連て帰り晩飯を食べさせて

 

11月23日     きみ子、田鶴子を高等学校の二〇年祭の余興の時出す相談に来る。

 

11月27日     日曜、けふは大久保さんの処にて化学の試験をする。

 

12月    4日     音楽学校に会有て小金井の子供両人と、大久保と行、初めて西洋音楽を聞。

 

12月11日     午後より於とも潤も散歩に出る。大久保も続て出る。

 

12月12日     この日、三時頃にきく、大久保の室に炭を出して持行きたるに、其の時はありし大久保の着物無く、誰人の入来りし様の様子も無きゆえ

 

12月16日     午後より伊せやに行き大久保の着ものをたのみ、襦袢を買来りて縫う。

 

12月18日     大久保の襦袢の袖を付終りて於との着物二枚たち合わせる。午後に伊せやに生きて仕立てを頼む。

 

12月20日     けふは午後に大久保の友達大勢来り夜迄遊ぶ。

 

12月21日     朝大久保この度、陸軍衛生部の事に付、小池局長宮内省不の字の由承る。正午より大久保は大學の宿泊。

 

12月25日     昼頃より潤三郎、於と良一、大久保四人連、本郷の西洋料理をおごりに行き夜帰宅。

 

12月27日     けふは西沢帰国、大久保君これを送る。 

 

 

 

明治38年(1905年)  峰子60歳、  鷗外44歳、  大久保榮27歳


1月    2日     旅順の戦済みたる様の号外来る。

 

1月    3日     午後、田鶴子、大久保と一緒に日比谷公園に行き・・・、田鶴子を大久保に頼て洋食をたべさせ小金井に送りて貰い・・・ 

 

1月21日     けふは十九日の誕生祝ひ・・・(鷗外の誕生日)・・皆で葉書一枚に寄合書をして戦地に出す。***この日の出席者は、上田敏、千葉鉱蔵、佐々木信綱、篤次郎、喜美子、大久保榮、数学教師今村、それに峰子、潤三郎であった。

 

1月23日     昨日戦地より葉書二枚来る。一葉は大久保の返歌、一葉はきみ子への返歌

 

1月29日     小金井家、於と、潤三郎、大久保皆連て西洋料理に行き夜かへる。

 

2月    3日     大久保は十時に帰宅。

 

2月 5日     日曜、晴。朝大久保小金井に見舞いに行。

 

2月12日     十時過ぎから田鶴子、大久保と一緒に大森の八影園に行き伊せ源にてひるめしをたべ蒲田の梅屋敷に行き、それより汽車にて上野にかへり、水月にて、たづ子に馳走をし暮れてかへる。 

 

2月13日     きみ子より大久保に歌来る。

 

2月21日     きみ子来る。大久保の事色々話す。

 

2月25日     良精と良一と参りて潤三郎、於と大久保京橋の支邦料理に・・・

 

2月28日     きみ子来て暫話。大久保の洋行の事に付ての話也。

 

3月19日     小金井の子供両人、音楽学校に・・・夕方かへりて晩飯をたべさせて大久保が送る。 

 

3月23日     早稲田の提灯行れつ。

 

3月26日     大久保弐人にて田鶴子を連て向島の百花園に行。帰りに上野の動物園に行。 夕方、帰宅。夜田鶴子を大久保送る。

 

3月27日     非常の寒さ。大久保少々病気也。

 

4月   3日      雨降り、けふは東京中の商人皆上野日比谷等へ祝勝会に参り賑わしき日ねれど時々、雨の降る為、思ふやうに行かず。

 

4月   7日      小金井、今朝より病気の由。大久保と於と見舞いに行き、於と支邦もののかんづめを持帰る。

 

4月   8日      向島は大學のボートレース故、大久保、良一と三坊を連れて行く。医科大学の勝利となり、大久保は夜大學へ祝いに行く。

*シンガポールに露西亜の軍艦三十五セキ見えたりとの号外来たる。

 

4月15日     大久保と於とは留守番故、夕方精養軒の料理を馳走したるに、この頃は○の流行料理にていつものとはまるで変わり、おいしく無きよし

 

4月18日     潤三郎の旅行先より上野の伊香保へ金五円電報為替にて送り呉との手紙故、直に大久保さんに頼み出す。

 

4月23日     戦地より十一日出の手紙来る。三枚同封故、壱枚は佐々木、一枚は大久保に遣す。この手紙には賀古、大久保の歌有り。其れに付ての自身の歌もあり。

 

4月30日     音楽学校にて中々大仕かけに奏楽室に一ぱいの人にて第一番田鶴子が出て琴をしらべたり。皆、同位の子供計にて実に能く出来たり。

 

5月   2日      戦地より葉書に歌を書たる来る。馬丁より洋犬をやしなひ連れてかへると申来る。

*洋犬:巨犬ジャン、遼陽で露国の将校に別れてから父に飼われた子牛のような犬のこと

 

5月    4日     今日、大久保、靖国神社の祭りにて休日、潤三郎はきのふ休み。

 

5月    7日     大久保、良一、於と、潤四人連にて本郷の西洋料理に行き・・・。

 

5月13日     於と大久保と両人小金井に御馳走が有るとのことにて行く。

 

5月24日     きみ子に十円遣す。又大久保にも同丈遣す。

 

5月28日     日曜なれども試験前於とも大久保も皆宅に居。

 

6月    5日     当月始めの海戦大勝利にて公債は何れも・・・。

海戦大勝利:明治三十八年五月二十八日、日本連合艦隊は日本海において ロシアのバルチック艦隊を破った。

 

6月10日     この夜、八時頃に講和に成るといふ号外出舞台にて読上たり。       

 

6月11日     小山内薫来る。

 

6月12日     銭袋貰ひ大久保に遣す。

 

6月23日     大久保、牛窪の・・・。

 

6月28日     今日は大久保の試験済日なり。

 

6月29日     昨夜大久保、小金井より帰りて・・・。

 

7月    4日     きみ子来りて大久保の試験点、明日張出に成る物を今日内々に見たるに、土肥の点悪くこれにては十番以下に成との事。きみ子は参ると良精にしかられる故参事出来ず。仕方無く自身行く。土肥は在宅にて会たる故、是非とも二十点丈貰度申たるに、調べ変へて呉たる故、八十点が九十八点となり其の書付をかへりに大學の事務所に届け置て帰り、翌日張出しに成て大久保一番となる。

 

7月    5日     きみ子来て昨夜の話をして大笑をする。

 

7月10日     朝七時於と高等学校の試験に行く。今日は一番大事の数学なり。

 

7月11日     けふは漢文、国文故に・・・。今朝、於と大久保君の時計を持行落とす

 

7月12日     於との外国語試験能く出来たる由うれし。

 

7月20日     この夜大久保君、大學の小児科へ茉莉子入院の由承り来たり。

 

8月    4日     朝、国民新聞、高等学校の試験の及第が分かり、自身もいやな心持、於とにも気の毒千万。大久保にも・・・。

 

8月12日     大久保のきもの持ち来る

 

8月18日     於と神田の法学院の中の高等学校の予備学校、新たに出来る由兼ねて聞きたるに・・・

 

8月19日     神田の中央学校に入校済す。

 

8月26日     けふも降り終日泉鏡花の小説をよみ暮らす。

 

8月31日     当月は倹やくせしゆえ払ひ少なく仕合わせなり。

 

9月    4日     小金井に西洋料理の馳走ある由案内ありて潤、於と大久保午後五時より行く。

 

9月    5日     いろいろ今日は世間騒がしく国民の大会とかが日比谷公園に有る処を巡査が止めたるため警察署を焼く等の事にて、号外のたて続け・・・

*講和成立に対し、国民はそれを“屈辱条約と激”して東京市中は騒擾化した。

 

9月   6日     今朝の新聞に見るに、昨夜は大騒ぎ交番も大概焼かれたる由。講和のことより人の気が変わり、この後は如何に成ると等噂する。・・・十時頃迄は、はん鐘を打ち火事のまね等致し居るたるも、こはしはせざりし。十一時頃より大勢来てこはし、遂に形無き迄にして立ちさりたるは十二時頃ならんか。 大久保と潤三郎は見たれども・・・。小金井は、良精と書生、良一等見に参り、良精は下駄を無くしたりと。今宵は根津の交番を焼く火の手二階より見。浅草の火の手も見え、それを見に行騒がしく、上野の戦争もこの通りなりしならん等申て皆見物する

 

9月15日      大久保君、大沢の試験ある。

 

10月   3日      今朝は大久保、山際の病理の試験にて一時帰宅。相変わらず能く出来たる由。

 

10月   7日      きみ子、大久保の試験の点を知らせに参る。一番よし。けふで第一学済みたるよし。

 

10月   8日     十一時、今晩戦地より書状来る。十一月中には、第二軍凱旋の様噂有る由、 うれしく其の夜ねられず。

 

10月14日     大久保、けふは河本の試験。

 

10月15日     朝大久保の点数の事、今迄皆よろしき故、高橋の点が最高点なれば弥々一番で卒業出来る故、小金井がわたくしに高橋順太郎の内へ頼みに行けと申す 故行く。

 

10月22日     午後上田敏来る。新体詩集(「海潮音」)に森先生へ送るとある故届けて呉との事。暫く大久保と話して行く。

 

10月25日     長谷の息のことで・・・大久保君を遣。

 

10月28日     けふ大久保の国より松茸を沢山貰う。

 

10月29日     大久保の頼みにて麹町の眼科河本へ行く。

 

11月    8日     けふは大久保の義兄来る。

 

11月19日     朝、大久保けふ一日休むといふ故、田鶴子を迎ひに遣る。

 

12月    4日     大久保君、外科の試験にて今宵一時過ぎ帰宅。

 

12月    7日     大久保君けふも外科の試験八時行く。

 

12月10日     大久保の試験済む。

 

12月22日     大久保の試験の終わりなり。

 

12月24日     大久保、潤、於と小金井へよばれて西洋料理の馳走に成りて遊び、夜九時過ぎに帰宅。

 

12月26日     新聞に第二軍の司令部は、一月一日戦地を発ち来年一月十一日東京着の都合にて、四日には丹後丸という船にのるとの事。夕方、小金井良精、大久保に急に用事ありとて来る。大久保はひる頃より於とを連れて神田川に行く。於とはかへりしも大久保、西沢の下宿に寄り不在。直に車夫遣して小金井に送る様申しつける。夜遅く帰りて洋行の早き方に行く積もりにて今までは、医化学の方を致す積もりなりしが、生理学の方にかへるとの事、 それなれば、来年六月前に洋行が出来ると申す事。

 

12月27日     この日、大久保は帰国の支度をする。

 

12月28日     けふは大久保、国に行く。大久保を送りに新橋へ行く。

 

12月29日     初雪降り出し寒さはげし。大久保に手紙出す。 

 

 

 

明治39年(1906年)


1月     5日      大久保より新年の歌を葉書にて送る。これを持ちて小金井に行く。

 

1月    9日      きふの朝、大久保かへる。

 

1月12日      朝八時過、大久保、於とと潤三郎皆新橋に迎ひに行く。

=第二軍凱旋=*東京、新橋駅(「東京駅」は未だ出来ていない)

 

1月20日      観潮楼での文学者連中との祝勝会 。上田敏、佐々木信綱、小山内薫、同八千代、伊原青々園、大久保榮、平野 万里、吉田白甲、久保田米○、篤次郎、喜美子、於菟ら。

 

1月28日      大久保榮君の卒業宴会にて四百人、大學其外より参り、伊井の芝居あり、長うた其外をどり等九時頃に帰宅。

 

2月19日      於とと榮等と浅草に行く。

 

3月15日      大久保と一緒に本郷座の芝居を見る。

 

4月     3日     朝、上田定雄来る。*榮の実弟 

 

4月15日      朝、潤三郎と大久保と自身とお茶の水まで車にて行く。

 

4月29日     この日、朝大久保の処に電報為替来る。金五十円とか。これはむりに妻を強ひる方より、わざと送りたるもののよし。直に為替にして 送り返す。夕方きみ子来て大久保に金五十円を遣し度由申す。それに及ぶまじとて返す。

 

4月30日      けふは満州軍の凱旋の後の大観兵式。林太郎四時より行く。

 

5月21日      大久保と潤三郎と皆で三越に行く。両人とも帽子を買う。

 

6月    3日      ひる前、大久保榮君の養家の母来る。これは榮君が、国の親類の母の子供をむりに約束して置くといふを聞入れぬ為、其事をとりきめに来る由。終 日話して榮君と一緒に宿に行く。

 

6月    7日      同事にて大久保の兄分の人来て其事いろいろ話す。まことにおもしろからぬ事なりき。

 

6月    8日      朝大久保の出かける時いろいろ相談して其夜榮君の思ふ様に成りたるとの話。

 

7月10日      於とは和漢文けふも同様に能く出来たる由。今日、大久保氏免状を貰ひ、 恩賜の銀時計戴する。

 

7月12日   (於と、第一高等学校受験。祖母清子死亡。)明日は於との試験の終わる日故、林太郎と大久保と見た計りにて、家内中この事いはず、只何事も無き様に致して朝六時半於とを試験に出し・・・。

 

7月22日     上天気。田鶴子来て大久保の西洋行にことづけ反物をわたす。夕方まで遊びてかへる。きみ子も来て帰る。

 

7月24日     きのふは大久保の御馳走、小金井にあり。潤も於とも皆行き、夜かへる。大久保も四時頃より行きたるが、六時より青山によばたれば、それに行きいろいろの品物を貰てかへる。妻は有かと聞かれたる由。家付きのむすめがあるとこたへかへりし由。随分男は気楽な事を言ふものとおかし。この夜、小金井夫婦、子供皆来りて大久保に暇乞をする。明日、横浜に行考え なりしも、いろいろ差し有て行かずとの事。

 

7月25日     昨夜より俄に大雨、今朝も続て降る。潤も於とも定雄君ともに横浜に行く。終日雨止ず、むしあつく心持悪しき日なり。七時頃に皆出て日暮れにかへる。船まで行て見たりと。あと片付する。夜具、きもの等定雄の処に持せ 遣す。座敷ひろく成る。

 

7月27日      大久保の出立の後日に、風雨。船の上如何。

 

7月28日      けふは児玉(源太郎)大将の葬儀あり。27日に神戸から出したる大久保の葉書来る。風有て海あれたる由。

 

8月26日      けふ、大久保に手紙を遣す。

 

9月     8日      良一、けふ岡山の高等学校に行く

*妹喜美子の(長男)小金井良一 

*小金井良一は森於菟と同年生まれ       

*旧制のナンバースクール:第六高等学校(現 岡山大学) 

*大久保榮の(実弟)上田定雄も良一と一緒に第六高等学校に入学する

*小金井良一は京都帝大医医科に、上田定雄は九州帝大医科へ進学する