森鷗外「花子」研究

鷗外『花子』執筆の動機


鷗外の人間的な優しさ

 

 

 

明治43年6月11日、大久保榮は留学先のパリで病にたおれ不帰の客となる。32歳で夭逝した。大久保の死は鷗外の家族を落胆せしめた。

 

『鷗外日記』によれば・・・

  明治43年6月 9日(木)大久保榮(巴里)に書を寄す

       6月13日(月)大久保肇(岐阜)に書状を発す

とある。その巴里では6月11日(土)大久保榮は亡くなっている。

 

海外郵便事情は最短のシベリア経由でも17日ほどを要すれば榮急死の報らせが三日で届くことは不可能である。至急扱いの外国電報か。「外務省か文部省を通じて榮危篤の症状が6月9日直前に鷗外のもとに入ったと推察できる。6月9日の鷗外の書は「電文」なのであろう。

 

鷗外のこの時期(明治40年代)を振り返れば、鷗外はすさまじい活躍を開始する。独逸的なシュトルム ウント ドランク(「疾風怒濤」)の時代と云える。陸軍軍医総監、陸軍医務局長という官僚トップの重責を果たしながら文部省美術審査委員の要職(後に、帝室博物館総長、帝國美術院の初代総長になる)をも務める。弟篤次郎(三木竹二)、次男不律の死に慟哭しながらも芸術誌上に翻訳戯曲発表を展開。明治42年1月に「スバル」(「昴」)を創刊し、「半日」「假面」「追儺」「魔睡」「ヰタ・セクスアリス」「鶏」、「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」「青年」など問題作を続々と発表。明治43年には鷗外肝煎りで「「三田文学」が5月に創刊され「桟橋」を、6月には「普請中」を誌上に発表する。この状況下で突如大久保榮の急逝が巴里から発せられる。 わずか二週間で『花子』を「三田文学第一巻第三号」(7月1日)に鷗外署名入りで発表する。

 

『花子』の執筆の動機はまさに大久保榮の死にあった

作中の医学士久保田某とは大久保榮とみなしてほぼ間違いない。『羽鳥千尋』のように実名こそ使用しなかったが、大久保榮は『花子』に医学士久保田某として永遠の生命を鷗外から授けられたことになる。従来の『花子』解釈に新しい視点から、明治近代日本人の知的選良とロダンの出会いというテーマで考えることが可能となる。

 

悲しみに暮れる家族(峰子、小金井喜美子)にあって、鷗外は大久保榮の死を悼みながら『花子』の執筆をした。内輪だけの婚約関係にあった小金井田鶴子や長男於菟には大久保榮の悲報を伏せていた。於菟が栄の実弟上田定雄に宛てた葉書(7月20日付)でこの間の鷗外のなみなみならぬ心情がわかる。鷗外『花子』は花子とロダンの単なる作品ではない。鷗外が書かねばならなかった文脈を読み取らなければならない。

 

『鷗外日記』によれば、岐阜の養父(大久保肇)と親友の東京帝国大学医科大学学長青山胤通に榮の遺骨の相談をしている。大久保肇は上京していたことになる。鷗外は冷静に耐え抜いて着々と手をうつ。

6月27日(月) 青山胤通、大久保肇に大久保榮が遺骨の事を申し遣る

6月30日(木) Scheibe(伯林)に書状を送る。(「電報」扱いか)

7月 6日(水) 朝小金井良精の洋行するを送りて新橋にゆく

7月 8日(金) 陰。前夜雨ふりて蒸暑かりき。長与又郎、太田孝之の二人来て大久保榮遺稿の事を語る

 

*ベルリンへの書状も娘婿の東京帝国大学医科大学教授小金井良精の渡航も大久保榮の死因や遺品整理のために急きょ鷗外が派遣したものと考えられる。

シベリア鉄道で17日間を要する旅の前途を見送るために鷗外は新橋駅頭に佇む。

 

鷗外の母峰子も孫(小金井田鶴子)の結婚相手として大久保榮の無事の帰国を待ち望んでいた。大久保榮は森鷗外の居宅「観潮楼」(本郷区駒込千駄木町二十一番地)の玄関番時代から家 族の一員のようにみなされた(長男於菟の家庭教師として、田鶴子の良き隣人として)。峰 子の日記に頻出する大久保榮との日常生活は鷗外妻志げとの不穏な確執をよそに穏やかな気持ちにみたされている。大久保榮は鷗外末弟の潤三郎と同年輩で、於菟や小金井良一(於菟と同年)それに小金井田鶴子らと親しんでいたことから峰子の榮に対する信頼は篤かった。

 

急死する半年前に、岐阜の養父(大久保肇)に宛てた大久保榮の葉書(明治43年3月30日)にはシベリア鉄道で帰ることが綴られていた。

 

大久保肇(岐阜)は医者の家系で、榮が無事に帰国すれば地方開業医としてもそれなりに近代医学診療の導入を期待していた。

 

於菟が鷗外から榮の死を知らされたのは七月二十日のこと。於菟が大久保榮の実弟(岐阜縣西黒野村:上田定雄)に宛てた葉書で委細(大久保榮の急死)を父鷗外から聞いたと記す。

 

於菟の上田定雄に宛てた葉書によって、かねてより鷗外研究者の間で問題視されてきた『花子』作品がその創作の動機から発表にいたる鷗外の心的情景の一端が明らかになったことは『花子』解釈の重要な視点となる。

 

鷗外の『花子』創作の動機は家族同然の大久保榮の突然の死にあり、鷗外といえども哀しみのあまりに大久保の実名表記はできなかった。作中人物のパスツール研究所の医学士久保田某に実像としての大久保榮と鷗外自身を投影したものと考えられる。

『花子』は7月1日の三田文学に掲載発表。