観潮楼時代の大久保榮 (東京帝大医科大学生)
大久保榮は明治12年に岐阜県揖斐郡大野村で生まれた。俊才の誉高く、郁文館中学、第一高校を経て、明治35年に東京帝国大学医科大学に入学した。
森鴎外鷗外が日露戦役に陸軍第二軍医部長として出征(明治38年3月21日)した。その翌日に、大久保榮は森家の留守居役として千駄木観潮楼の玄 関番兼書生という恵まれた環境に身をおいて勉学に励むことになる。
無名の大久保榮が鷗外のもとに寄食できたのは二つの理由からと推測できる。鷗外の若かりしころ、苦学勉励の経験により才能ある学生の窮状に対して思いやりをする人と為りであったことによる。
〈これは父の若くて才能あり財力のない人に対するやり方で、現金を渡さない、「おれのうちに居って一所に飯を食え。何か必要なものがあったら、おれの指定する店からとって勘定書をよこせ、そうして職を求めろ、おれも考えてやる」。〉
森於菟『父親としての森鷗外』(P39)
このような鷗外の温かい眼差しで、「観潮楼」玄関番に就いた医学生は於菟の記憶にのこる人物だけでも羽鳥千尋など八人を数える。
それに鷗外の妹小金井喜美子や母峰子の推挙があったものと考えられる。小金井良精は東京帝大医科大学教授であることから首席を維持する俊秀の大久保榮は教え子であり、喜美子から峰子に当然ながら話題の人となる。
鷗外の無二の親友青山胤通(東京帝大医科大学長)のもとを峰子がわざわざ大久保の件で訪ねている。
『森鷗外・母の日記』
*青山胤通:安政6年(1859) ~ 大正6年(1917)
東京帝国大学医学時代、森鷗外の同窓生。東京帝国大学医科大学長。近代臨床医学の権威。日本医学会会頭。岐阜県偉人。天皇の侍医。
*佐藤三吉:安政4年(1857) ~ 昭和18年(1943)
東京帝国大学医科大学長 。日本外科学会会頭。岐阜県偉人。
*大久保榮は帝大医科大学在学中、首席の座を譲らなかった。両教授の教え子であり同郷の岐阜県人でもあった。