観潮楼時代

森於菟の回想


観潮楼は私の魂の故郷である・・・森於菟

 

「観潮楼」とは明治25年8月10日に落成した本郷区駒込千駄木町二十一番 地の森鴎外の居宅のこと。団子坂(一名潮見坂)上の家の二階からはるか品川 沖の白帆の舟が望めたことから名がついた。明治の文人、芸術家が参集した。 太平洋戦争の東京空襲で焼失した。その跡地に文京区立森鷗外記念館ができた。

 

大久保榮の観潮楼、玄関番時代

(明治37年3月21日 ~ 明治39年7月25日) 

日露戦争:明治37年3月21日、鷗外第二軍軍医部長として出征する。

出征にあたり、佐々木信綱が、日本歌學全書所収の「萬葉集」一部三冊を餞とした。

森潤三郎『鷗外森林太郎』

 

妻は長女茉莉を連れて芝区明舟町一九番地の実家荒木家の持家に移り、留守宅観潮楼は、祖母と母、末弟潤三郎、長男の於菟で守った。そのため、留守中無人のため、大學医科の学生大久保榮を観潮楼に寄食させ、かたがた長男於菟の学習の指導、監督に当ってもらっ た。大久保榮は、林太郎出征の翌二十二日観潮楼に移る。                       

苦木虎雄『鷗外研究年表』(P551)

  

於菟の記憶する八人の観潮楼玄関番

片桐元、小出釥、福間博、大久保榮、久保盛徳、羽鳥千尋、上田定雄(大久保榮の実弟)、 木嶋武夫

 

「観潮楼」に出入りした明治の文人たち

幸田露伴、佐々木信綱、木下杢太郎(太田正雄)、伊藤左千夫、与謝野寛・晶子、上田敏、 永井荷風、小山内薫・八千代(妹)、石川啄木、吉井勇 等々

*上田敏(英文学者:「柳村」)が、・・・当時学生だった小山内薫(東京帝大英文学学生) と大久保榮(東京帝大医科大学生)を推奨する。

 

家庭教師としての大久保榮

大久保榮というのは東京帝大の医科大学生で優秀な人であったが一時観潮楼に寄宿し独協中 学生である私の勉強を監督してくれた。また独逸文学に趣味をもって戯曲の翻訳などを初め この方面にも嘱望されたが、次代の教授候補者として病理学研究の目的で欧州留学中ストラ スブルヒで腸チフスを病んで客死した。

森於菟『父親としての森鷗外』(P17)

 

しばらく私はグリムの翻訳をつづけて、そのころ私の家に寄宿していた東京大学医科の学生大久保榮さんになおしてもらった。大久保さんは有名な秀才で、私にドイツ語ばかりで なく、いろいろの学科を親切に教えて下さった先生である。

森鷗外・森於菟共訳『グリム兄弟作しあはせなハンス』(あとがき)

 

 

森家における大久保榮

鷗外の母峰子の日記には 毎日のように大久保榮にふれている。

峰子や鷗外末弟潤三郎(榮と同年配)、於菟それに鷗外妹小金井喜美子とまさに家族同様の暮らしをしていた。 

 

 

森於菟:大久保榮の回想

大久保榮さんは東大医科を出た人で、大学入学当時からきこえた秀才だったので叔父の小金 井良精教授夫妻も目をかけていた。また一方文筆にも長じており、同じ年代の小山内薫さん などと親しく、前後して父のもとに来て『芸文』『万年草』などにも文章をよせ、歌会には 出なかったが小金井の叔母きみ子などには和歌を寄せていた。岐阜県人で旧姓を上田といっ たが大久保肇さんの養子となったので、祖母なども家に来る度に信頼して何事にも相談相手 になってもらい、他家に寄食するような人ではないが、客分格で私の先生として来てもら い、行末は親戚の女を配するつもりでいた。私の独協卒業から一高入学前後のこと(明治 三十八、九年)である。大久保さんは少年の時から学校で首席をはずしたことのない人で、 運動競技はとりたててしないが趣味も広く豊で、その学生生活も相当多忙であった。私を引 受けた直後数学語学など二、三試問し、観潮楼階下の玄関から西南の隣りにある六畳間(以 前父の書斎であり、かの大橋音羽が写真機をのせたあたり)に机をすえ、私の机をそれに直 角に置かせて私の勉強を監督することにした。二三日後祖母に報告して曰く「おと坊のはで きないのじゃない。勉強のやり方を知らない。又知ろうともしない。つまり何もしないんだね」 と私の一番痛い所をついた。父と小金井の叔父だけに対しては先生といったが、祖母をおっ 母さん、曾祖母をおばあさん、小金井の叔母をおきみさん、叔父篤次郎を篤さん、叔父潤三 郎を潤ちゃん、私を坊主と呼び傍若無人の観があった。祖母は笑っていたが、昔気質が変わ らず今も事あれば、わしはさむらいじゃと頑張る曾祖母は「大久保は無礼なやつじゃ。百姓 の子はしかたがない」と苦り切った。かくのごとく片手間に、私に監督の目を光らせ、自分 は独逸劇の翻訳を推敲しながら医科の卒業試験ととり組んだ。その結果を小金井の叔母なぞ は危ぶんだが、やはり首席を下らず、当時学徒にとり栄光の標的であった恩賜の銀時計を獲 得した。病理教室に入って研究を重ね、一級上の長与又郎さんと共にこの方面の東大教授を 約束された形で渡欧したが独逸ストラスブルヒに在留中腸チフスに感染し、その高熱に対し てこの国で当時行われた水浴療法が日本人の体質に適せず、弱った心臓はこれに堪えないで 心臓麻痺をひき起したとのことであった。大久保榮さんが欧州滞在中死んだのは明治四十三 年六月十一日だがそれはずっと後に知った。父の日記を見るとこの年六月九日巴里の大久保 に書を寄せ、ついで十三日にその父岐阜の大久保肇に書を遣すとあるが、事は彼の病の重い のを知った前後であろう。同じく六月二十七日には大久保さんと同じ病理学者で一年先輩の長与又郎と、大久保さんと同窓の親友であった太田孝之とが大久保榮遺稿の事を議しに観潮 楼に鷗外を訪れている。大久保さんが私の家にいた時、度々その室に来た同級生は太田孝之、 田中好治、西沢貞三郎の三人で、中でも太田さんは文学上の趣味もあり、子供で雑誌にもの を書いたりする私をからかって「いい子だから君の同室の住人の真似をしてはいけない」な どと書いた画はがきをくれた。西沢さんは小児科の弘田教授の医局に入ったので、後までも しばらく私の家に招かれて幼い弟妹の診察に当たった。「金毘羅」に書かれた親切な西田学 士である。大久保さんの遺稿というのは独逸文で書かれた病理学の論文集で、一巻となった ものを私も一部所蔵していたが、戦後蔵書を片づけた際見失った。東大の鷗外文庫には残っ ていると思う。

森於菟『父親としての森鷗外』(P41~43)

 

 

 

 

明治43年 森於菟の葉書